コーヒーを淹れるという行為
コーヒーが好きで、自分でもよくハンドドリップで淹れます。手動のミルで豆をガリガリと挽いて、ペーパーフィルターで淹れるんですけど、面倒に思えるこの行為が、僕は結構好きだったりします。料理だって、食べるだけじゃなくて、作る行為そのものが好きな人もいますよね。
僕はコーヒーの味よりも、ひょっとすると香りの方が好きなのかも知れません。豆を挽いている時の香ばしい香りや、挽いた後のコーヒーの粉末が最初の蒸らしのお湯数的を吸った後に、ふわりと香りが立つ瞬間、そういう瞬間を愛しています。いつか、許されるなら喫茶店をやって、ひたすら一日中コーヒーを淹れる生活をしてみたいです。
そんな僕なので、昨日たまたま某所の特設カフェをボランティアで手伝ったんですが、100杯以上コーヒーを淹れましたけど、全部電動のコーヒーメーカーだったので、悲しいというか欲求不満というか、やるせない気持ちになりました。ただ、たくさんお客さんが来る喫茶店では、いちいちハンドドリップで淹れていると時間がかかり過ぎて仕方ないので、時間短縮のためにはやむなしというところです。
どうでもいいんですけど、聖書の時代にはコーヒーは存在してなかったみたいですね。ベルギーにはよくあるように修道院でビールを作っていたところは多いのですが、南米やアフリカなどのコーヒー豆の産地で、修道院や教会がコーヒーを生産していた例はあるのでしょうか。書いていて疑問に思ったので、ちょっと調べてみようと思います。