on wings like eagles

日々ごはんを食べるように活字を食べて生きています。

文章の力:「壁と卵」(村上春樹 雑文集より)

いま、『村上春樹雑文集』を読んでいます。そこに含まれている「壁と卵」 エルサレム賞受賞のあいさつについて、いつぞやツイートもしたのですが、ちょっとまとめておきたくて、ブログにも書いておくことにします。

この「雑文集」にはデビュー当時から最近に至るまで、いろいろな村上春樹氏の未発表の文章が載せられているんですけれど、雑文集というタイトルから想起される内容よりは、結構重くて、読み応えがある文章がたくさん収録されています。なんとなく最初の方から読んでいったのですが、「壁と卵」にさしかかったところで、ちょっとした違和感を覚えました。

エルサレム賞受賞のスピーチは、その当時かなり話題になったので、僕もネットで目にしていました。未発表じゃないよね~と思いつつ読んでいったのですが、なぜか読み進めるうちに目頭が熱くなってきてしまう。あれ? 以前に読んだとき、こんなに感動したっけ? 書いてある内容は確かに同じだと思うんだけど。 ネットで読んだ文章は横書きだったから、こうして本に収録されるにあたって縦書きになり、それで印象が変わったんだろうかなんて思ったのですが、どうもそれだけではないような気がする。そう思って調べてみたところ、授賞式当時、ネットに掲載された文章は、第三者の手による翻訳でした。スピーチ自体は英語でされていたのです。

 

で、「雑文集」に収録されているのは、紛うかたなき村上春樹氏自身の手による日本語。この文章が先にあり、ここから英語のスピーチ原稿が作られたのか、英文のスピーチ原稿が先にあり、氏自身が翻訳をしたのかはわかりません。いずれにしても、本人の文章であることは間違いないです。それが分かって初めて、ああ、違和感の原因はこれだったかと納得しました。同じ内容について書かれていても、こうも印象が変わってくるのか、これこそ文章の力なんだなと。試しにどれくらい違うのか、並べてみようと思います。ごく一部をネットと雑文集から引用してみます。

「しかしながら、慎重に考慮した結果、最終的に出席の判断をしました。この判断の理由の一つは、実に多くの人が行かないようにと私にアドバイスをしたことです。おそらく、他の多くの小説家と同じように、私は人に言われたことと正反対のことをする傾向があるのです。「行ってはいけない」「そんなことはやめなさい」と言われると、特に「警告」を受けると、そこに行きたくなるし、やってみたくなるのです。これは小説家としての私の「気質」かもしれません。小説家は特別な集団なのです。私たちは自分自身の目で見たことや、自分の手で触れたことしかすんなりとは信じないのです。 というわけで、私はここにやって参りました。遠く離れているより、ここに来ることを選びました。自分自身を見つめないことより、見つめることを選びました。皆さんに何も話さないより、話すことを選んだのです。」 → こちらは当時ネットであがっていた翻訳文。

「しかし熟考したのちに、ここにくることを私はあらためて決意いたしました。そのひとつの理由は、あまりに多くの人たちが「行くのはよした方がいい」と忠告してくれたからです。小説家の多くがそうであるように、私は一種の「へそ曲がり」であるのかもしれません。「そこに行くな」「それをやるな」と言われると、とくにそのように警告されると、行ってみたり、やってみたくなるのが小説家というもののネイチャーなのです。なぜなら小説家というものは、どれほどの逆風が吹いたとしても、自分の目で実際に見た物事や、自分の手で実際に触った物事しか心からは信用できない種族だからです。 だからこそ私はここにいます。来ないことよりは、来ることを選んだのです。何も見ないよりは、何かを見ることを選んだのです。何も言わずにいるよりは、皆さんに話しかけることを選んだのです。」 → こちらは村上春樹氏自身の文章。

言葉に込められている力が違いますね。

村上春樹『やがて哀しき外国語』を読みました。

結構前に書かれたエッセイだけど、やっと読むことができた。 村上春樹プリンストンに客員で招かれていたときのあれやこれやのエピソード。 本人も前書きで記しているんだけれど、随分ストレートな意見が書き込まれている。 特に日本の大学受験とか、国家公務員の偉ぶりの所とか、確かに読んで傷つく人もいるかもしれない。(これまた本人もそう断りを入れている) もし他の誰かが書いているなら僕自身もちょっとかちんとくるような意見もあったけれど、村上春樹が書くとそんなに腹を立てるようなことでもないように思えてくる。結局僕は書かれている内容それ自体よりも、村上春樹の文体そのものが好きだったりするので。とくに、「である調」で文章が続いているところに、ちょっとしたオチを語るときに入れられる「ですます調」の効果、絶妙です。これは本当に効果的で、海外で氏の作品が人気あるのは分かるけれど、こういう日本語の絶妙な表現は翻訳しきれないだろうなと思うと、日本語で氏の作品が読めるのは幸せだなと思う。

それから、「アメリカで走ること、日本で走ること」という一節があって、ここは楽しく読んだし、ランナーの端くれとしても全面的に賛成。特に昨今のマラソンブームで、レースに出るのに申し込みの段階から苛烈な席取り合戦があるのはどうなのと思っているので、アメリカの草レースみたいに当日ふらっと参加できるようなレースが日本にもあっていいのにな、とはよく考える。

それにしても、僕が村上春樹を「再発見」したのは『走ることについて語るとき僕の語ること』を読んでからなんだけれど、それよりもずっと前に村上春樹はあちこちのエッセイではランニングについて書いてるんだよね。『走ること~』で氏がランナーだったことを初めて認識した人も多いと思うけど(僕もそのひとり)、小説作品にランニングのことがほとんど出てこないからなのかもしれない。僕が覚えている限り、『羊をめぐる冒険』と『納屋を焼く』ぐらいかな、走るシーンがはっきり出てくるのは。もっとあるのかも知れないけど、印象には残っていない。いつかマラソンについての小説を書いてくれないかなとは思うけれど、氏の作風を考えると、ちょっとそれは想像しにくいとも思う。